何書こうかしら?

正解のない「問い」

石川一郎著「2020年からの教師問題」を読んでいる。

2020年にセンター試験が廃止され、大学入試が大きく変わる。

そのときに向けて「正解のない『問い』」に取り組んでおくべきと書かれてある。

例題として

「江戸時代の三大改革と田沼意次の政治を比較し、あなたならどのような経済政策を取るか」

「もし、地球が東から西に自転していたとしたら、世界は現状とどのように異なっていたと考えられるか、いくつかの観点から考察せよ」などが紹介されていた。

 

今までの知識の習得を中心とした学習だけでは答えられないような問題だと思う。

そこには得た知識を自分なりに応用し考えることと、その考えたことを相手に明確に伝える力が必要になってくる。

 

この本を読んでいたら、数年前に私が小学5年生とした授業(授業というよりディベート?)を思い出した。

 

題材は「人間の妊娠期間はなぜ38週なのか」というもの。

一通り、妊娠の仕組みや、妊娠してからの胎児の成長を勉強してからのディベートなので、「もし38週よりずっと早かったら?」「もし38週をだいぶ越えたら?」などを考えながら、いろんな意見を出してもらった。

 

児童からは「生まれてすぐ立ち上がって歩ける動物もいる」「人間は生まれてすぐは何もできない」「ごはんも食べられない」「歩けないからもし家の外で生まれたりすれば他の動物にやられてしまう」「守ってくれる存在が必要」などいろんな意見が出て、とても盛り上がった授業になった。

 

結果、児童たちが出した結論は「人間は頭が良くて脳が発達してるから頭がでかくなる。

だから参道を通れるギリギリが38週。未発達で生まれてくることを考えると本当はもっと母体にいるべきだけど」みたいなことまで出てきた。

 

実はそのとき、私は答えを知らなかった。

いろいろ調べたけどこれが正解だというような答えは見つからなかった。

それでもこの授業に踏み切ったことは無謀だったと思っていたが、石川一郎氏の著書を読んでいたら、それで良かったのかもと思えた。

私が答えを知らないから、児童たちは自分たちで答えを出そうと躍起になっていたし、私が答えを知らないから、答えを知っている先生には嘲笑されそうな意見も活発に出ていたように思う。

 

一つの疑問に答えを出すことが大切なのではなく、こどもたちに考えてみたいという問いを教師が示すこと、そして何でも言えるような雰囲気、より深い学びにつながるための発問があれば、こどもたちは自分たちで学び出すことがわかった。

 

もう10年以上経つがいまだにその授業を思い出す。

声を張り上げるようにして意見を述べていたこどもたちは生き生きしていた。

 

もう知識を詰め込むだけの学びは終わる。

知識をどのように活用できるかに主眼が置かれる。

そしてその活用の場が生き生きしていれば、また知識を得たいと思う。

そして自分でどんどん学び出す。

 

そんな学びに走り出すこどもたちをちょっとだけ導きサポートしていくのが教師の役割なのかもしれない。