何書こうかしら?

運動会は誰のもの?

車で5分ぐらいの距離に、公立の小学校がある。

将来、うちのこども達もこの学校に通う予定だ。

 

秋は運動会のシーズン。

来週、小学校でも運動会が催される。

 

この小学校の運動会には、今の家に住み始めてからずっと見に行っている。

まだ娘も赤ちゃんだった頃からだ。

 

例えば昨年は4歳の娘と0歳の息子を連れて見に行った。

すると

毎年「どうして来たの?」と言われる。

小学生の子を持つ知り合いに会うと、決まって「親戚の子でも小学生におるん?」と聞かれ、「いない」と答えると、「じゃあなんで来たん?」と言われる。

 

おそらく学校の運動会は我が子を見に来るところ、またはおじいちゃんおばあちゃんが孫を見に来るところだと、みんな思い込んでいるんだと思う。

 

でも私はそれは違うと思う。

もちろん我が子や我が孫が出ていれば、見に行けばいいと思う。

でも公立の学校は本当なら地域の人みんなの学校で、こどもを通わせてなくても足を運んでいいし、もちろん行事などがあって見に行きたいと思えば、誰でも見に行っていいのだ。

 

私は、こどもを通わせている親や家族だけが学校に行くという固定観念をなんとか変えられないものかといつも思っている。

 

今日も小学校で6年生がリレーの練習をしていたので、息子を連れて見に行った。

息子は「走ってるねぇ」と言いながら見ていた。

今日は家に帰ったらお姉ちゃんとリレーの真似っこが始まるかもしれない。

これこそが本当の「学び」だ。

 

学校に小学生だけじゃなく、その親だけでなく、先生だけでない、もっと異年齢の人間が来れるようになれば、その学校に通う小学生にとっても、良い影響があると思う。

 

それに今日息子が学んだように、その学校に行った人も小学生から学ぶことができる、そんな相互作用を生むような空間が学校だったらどんなに素晴らしいだろう。

 

4月から講師としてどこかの学校に勤めることになるだろう。

その際には、微力ながら、その学校が「地域みんなの学校」となるよう何か貢献したいと思っている。

 

天使のよう?

来年4月からまた学校で講師をすることになるかもしれない。

今は、採用試験も終わったので、家事育児の合間を見つけて、教育関連の本を読んでいる。

4月からの実務に少しでも役に立つように、また自分のポリシーをしっかり持って仕事に臨めるように。

 

図書館で本を探す。

教育関連の本棚の前。

発達障害自閉症ADHD学習障害アスペルガー…など、支援が必要なこどもたちに関する本も多い。

 

教室にも特別な支援が必要な生徒もいるだろうと思い、手にとってパラパラと読んでみる。

すると…あった。

こういう本によくある「天使」という言葉。

私はこの言葉を見つけてすぐに本を閉じた。

 

自閉症児に関する手記などに多いのが、この「天使」という言葉。

特に自閉症児を持つ親の手記によく書いてあるように思う。

自閉症児が人と独特な関わりをすることや、独特なものの見方感じ方をすることで、「私たちとは違う。天使だ」という言い方なんだろうけど、私はこれがあまり好きではない。

 

そもそも「天使」とはどういうものなのか?

天の使いと書くからには、神様が地上に送り込んだこどものこと?

見たことがある人はいないだろうし、見たことがある人も絵画で見た程度だろう。

 

見たこともないものに例えるのも変だと思うし、それに「天使のよう」と我が子を例えることによる母親の自己満足や母親自身への慰めか励ましのように思えてしまう。

 

我が子を「天使」に例えてしまいたくなるくらいかわいいという親の気持ちは、その子が自閉症児でなくても、多くの親が感じていることだろう。

 

なのにわざわざ「我が子は天使だ」と本に書いてまで、世間に知らせたい気持ちの奥に何か別のものを感じるのは私だけだろうか。

 

私にはそういう穿った見方をしてしまうところがある。

悪いところだ。

 

 

 

 

 

                  

早期教育の後悔

ある早期教育の教室で講師をしていたことがある。

その教室の創始者の教育論と自分がやりたい教育で重なる部分が多かったからだ。

 

しかし、勤めてから一年ぐらいした時から「なにか違う」と感じ始めた。

辞める頃にはその教室の教育に批判的な気持ちになっていた。

何が違うと感じたかは言葉で表現するのが難しい「何か」だった。

 

今、藤原智美著「なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか」を読んでいる。

図書館でこのタイトルを見た時「犯罪など特異な行動を起こす少年たちを絵という観点から考察する本だろう」と思った。

「以前にも似たような本を読んだし読まないでいいか」と思ったけどなんとなく気になって借りて帰ってきた。

 

読み始めると「ん?ん?んー?!」という感じでとても興味深く読み進めた。

現在良かれとされている母子密着育児についてあらゆる角度から見ていく内容だ。

「三歳までは母親の私がこどもを見る」

と決めてがんばっていた私には青天の霹靂という感じだった。

 

この本は、異常行動を起こすような特異なこどもについて書いてあるわけではなく、ごく普通に見えるこどもが母子密着育児による母親の過度な養育、教育に押し潰されていく可能性について書かれている。

 

「腕のない絵を描く」のは、暴力やネグレクトを受けたこどもではなく、むしろ逆に母親の過保護、過干渉と行きすぎた教育を受けたこどもだという。

 

早期教育についても、

脳の成熟がなされていない段階で、こどもに強制的な学習をさせることに警鐘を鳴らしている。

 

私が勤めていた教室でも母親に「シナプス」「3歳神話」「臨界期」などの言葉をレクチャーして「今、学習すべき」と勧めていた。

 

今はその教育に自分が加担していたことに後悔している。

あの教育は間違っていたと胸を張って言える。

この本を読んでそれがはっきりわかった。

 

 

 

引き抜きはダメ?

今、騒がれている体操の問題について少し。

 

暴力は今のご時世、完全にアウト!

これを知らないで人を指導する立場に居続けられたことが信じられない。

コーチングを勉強したり、他の素晴らしい指導例について勉強したり、少し見識を増やそうとしていたら、そんなことはすぐにわかるはず。

指導者として勉強不足!認識不足!

 

パワハラについては少し問題。

少し前にもボクシングであったけど、下から意見が言えない雰囲気、媚びへつらわないと冷遇されると思わせるてる状況は、上に立つ者が改善しないといけなかった。

(でもそれでずっとやってきて、下の人は持ち上げてくれるし、それで結果も出てたらなかなか変えれないよね…)

 

今日書きたいのは引き抜きについて。

引き抜きについて報道されてるのを知ったときすぐ「なんで引き抜きはダメなの?」と思った。

 

その理由はこうだ。

私も高校3年の時、引き抜かれそうになった。

 

高校1年の頃から、私はY先生に声楽のレッスンを受けていた。

歌が好きだった私に両親が探して来てくれた先生だ。 

学校では習えないイタリア語や、それまでは知らなかったオペラ、練習方法や、音楽の背景…いろいろ教えてもらうのが楽しかった。

 

そうして続けていると「音大受験」が見えてきた。

そんなとき知り合ったのがH先生だった。

H先生は「Y先生にレッスンを受けてるのね。

あの先生は良くない。私ならもっと教えられる。いい大学に行ける」と言った。

怖くなった。

純粋に音楽を学んでいた自分の気持ちさえ傷つけられたように感じたと同時に、大人同士の争いというかしがらみが見えたような気がした。

 

私は誰にも相談せずいろいろ考えた。

そしてY先生の元に残ることにした。

理由はY先生の音楽に対する取り組み方を尊敬していたし、私に対する眼差しが入試までではなく、その先の生き方まで考えてくださっているように感じていたからだ。

 

で、今回の体操の引き抜きについて。

私にはただ、宮川選手が朝日生命に誘われて断っただけと見えている。

18歳なら充分に自分で判断ができるし、その判断が「断る」だっただけだと。

引き抜きはタブーだとか言ってる元体操選手がいたけど、私はそこに権力を振りかざした圧力や変な脅しなどが無かったのなら、別に問題は無いのかなと思っている。

 

最近のスポーツ界の話題には2020年東京オリンピックの利権が絡んでいることが多いのだろう。

マスコミなどで問題視されている人も、実は誰かに陥れられたのかもしれず、マスコミに持ち上げられてる人は、誰かを陥れた結果その人気を得たのかもしれない。

 

そんなことが裏にあっても、我々はわからないだろう。

冷静な目で見ていかないといけない。

 

 

 

 

正解のない「問い」

石川一郎著「2020年からの教師問題」を読んでいる。

2020年にセンター試験が廃止され、大学入試が大きく変わる。

そのときに向けて「正解のない『問い』」に取り組んでおくべきと書かれてある。

例題として

「江戸時代の三大改革と田沼意次の政治を比較し、あなたならどのような経済政策を取るか」

「もし、地球が東から西に自転していたとしたら、世界は現状とどのように異なっていたと考えられるか、いくつかの観点から考察せよ」などが紹介されていた。

 

今までの知識の習得を中心とした学習だけでは答えられないような問題だと思う。

そこには得た知識を自分なりに応用し考えることと、その考えたことを相手に明確に伝える力が必要になってくる。

 

この本を読んでいたら、数年前に私が小学5年生とした授業(授業というよりディベート?)を思い出した。

 

題材は「人間の妊娠期間はなぜ38週なのか」というもの。

一通り、妊娠の仕組みや、妊娠してからの胎児の成長を勉強してからのディベートなので、「もし38週よりずっと早かったら?」「もし38週をだいぶ越えたら?」などを考えながら、いろんな意見を出してもらった。

 

児童からは「生まれてすぐ立ち上がって歩ける動物もいる」「人間は生まれてすぐは何もできない」「ごはんも食べられない」「歩けないからもし家の外で生まれたりすれば他の動物にやられてしまう」「守ってくれる存在が必要」などいろんな意見が出て、とても盛り上がった授業になった。

 

結果、児童たちが出した結論は「人間は頭が良くて脳が発達してるから頭がでかくなる。

だから参道を通れるギリギリが38週。未発達で生まれてくることを考えると本当はもっと母体にいるべきだけど」みたいなことまで出てきた。

 

実はそのとき、私は答えを知らなかった。

いろいろ調べたけどこれが正解だというような答えは見つからなかった。

それでもこの授業に踏み切ったことは無謀だったと思っていたが、石川一郎氏の著書を読んでいたら、それで良かったのかもと思えた。

私が答えを知らないから、児童たちは自分たちで答えを出そうと躍起になっていたし、私が答えを知らないから、答えを知っている先生には嘲笑されそうな意見も活発に出ていたように思う。

 

一つの疑問に答えを出すことが大切なのではなく、こどもたちに考えてみたいという問いを教師が示すこと、そして何でも言えるような雰囲気、より深い学びにつながるための発問があれば、こどもたちは自分たちで学び出すことがわかった。

 

もう10年以上経つがいまだにその授業を思い出す。

声を張り上げるようにして意見を述べていたこどもたちは生き生きしていた。

 

もう知識を詰め込むだけの学びは終わる。

知識をどのように活用できるかに主眼が置かれる。

そしてその活用の場が生き生きしていれば、また知識を得たいと思う。

そして自分でどんどん学び出す。

 

そんな学びに走り出すこどもたちをちょっとだけ導きサポートしていくのが教師の役割なのかもしれない。

カンカンカンカン…

車の運転中。

カンカンカンカン…

目の前の踏み切りが鳴ると「ちっ!引っ掛かってしまった!」

これが今までの私。

 

カンカンカンカン…

「ラッキー!電車だ!」

これが今の私。

 

私はせっかちな性格だった。

何でも早くこなしたいし、終わらせたかった。

もちろん目的地にもできるだけ早く着きたかった。

 

でも今は踏み切りが鳴るとうれしい。

それは

電車好きの息子が助手席に乗っているから。

電車を見て喜ぶ息子。

それを見て喜ぶ私。

 

私も変わったなぁと思う。

でもこどもを産んでから少しの間は、せっかちな性格も残っていた。

それが今ではせっかちなんかどこかへ行ってしまったようだ。

 

それは二人のこどもを母乳で育てたことに大きな原因がある。

私自身がアレルギー体質で苦しんだこともあり、こどもにはそうならないように、もしなったとしてもなるべく軽く済むようにと思い、母乳育児を選んだ。

(これには賛否あるが、私は母乳でアレルギーに対抗する方を選択した)

 

娘は2歳半まで母乳を飲んでいた。

息子ももうすぐ2歳だけどまだ飲んでる。

(もちろん食事と平行して)

 

母乳を飲ませている間は身動きが取れない。

鼻水が垂れてきてもティッシュを取るのが難しい。

トイレに行きたくても我慢。

読みかけの本があっても近くに置いてなければ読めない。

家事を進めたいのにおっぱいを離してくれないし、動けない。

 

そんな時間を毎日何回も、それを5年近く続けてたら、時間通りに物事を進めることや、何かを早く終わらせることなんて諦める癖がついてしまった。

 

そんな私になったから、踏み切りで止められても「ラッキー!」とか思ってしまうんだろう。

 

今朝、踏み切りで止められた。

電車が通って踏み切りを渡ろうとしたら、またすぐカンカンカンカン…。

二度も止められた。

すごくラッキーだった!

 

 

アンビバレントな彼女

欅ヲタの方に嫌がられるかもしれない。

実は昨年末の紅白歌合戦から、欅坂46をチェックさせていただいている。

 

サイレントマジョリティ」の頃から気にはなっていたんだが、出産や子育てに負われていて欅坂のいろいろをチェックすることができなかった。

 

そして昨年末の紅白歌合戦を動画で見ることになり、「あーやっぱり好きだ」と確信した。

欅坂ファンのみなさんは、その紅白からファンになった「にわかファン」を嫌がっていると聞いたことがある。

 

そのお気持ち、ちょっとわかります。

私も「私だけがわかってる。理解している」と自負してるものを、ちょっとかじっただけの人がわかったふりしてるのは嫌ですもの。

「あんたとは違う。それを好きだった年月はもちろん情熱も!」と思いますもの。

 

でも私は魅せられてしまった。

欅坂46に。

平手友梨奈に。

 

その理由をどう表現したらいいだろう。

雰囲気、ダンス、衣装…。

曲は大人でもこどもでもない境界人に向けたプロパガンダが目立つ。

特にシングルの曲はそう。

でもそのプロパガンダを彼女たちのかわいらしい声で訴えてるそのギャップがなんだか私の耳をとらえた。

そして敢えてそのギャップを埋めようとはしない強い自己主張。

見た目はかわいく、でも強情。

大人しいようで、したたか。

まさしく彼女達がアンビバレントなのだ。

 

そしてその象徴的な存在、平手友梨奈

静と動。

健康的で危うい。

女らしく男っぽい。

やわらかく強い。

何にでもなれそうな彼女の才能。

この逸材は久しぶりに見たような気がする。

 

まさしくアンビバレント欅坂46

これからも陰ながら応援したい。

 

追記:「アンビバレント」を聴いてると谷川俊太郎の「春に」を思い出す。

                                  ~  

          地平線のかなたへと歩き続けたい

          そのくせじっとしていたい

                                  ~

思春期特有のアンビバレントな気持ちをうたった(私はそう解釈してます)この詩は中学3年国語の教科書に載ってます。